【さくらももこ追悼】『ちびまる子ちゃん』や『そういうふうにできている』を改めて読み返す。

『そういうふうにできている』
本レビュー
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こんにちは、森雨です。

昨日はSNSでさくらももこ氏が亡くなったことを知り、本当にショックでした。
つい最近『ちびしかくちゃん』という漫画のレビューを書いたところだったので、ご病気だということも知らなかったし、まさかそれがガンだということも全く知りませんでした。

さくらももこといえば、『ちびまる子ちゃん』の作者ですが実は私は漫画だけでなくエッセイが大好きで中学生のころは大笑いしながら読んだもんです。自由な発想と発言力で、もう本当にまるちゃんがそのまま大きくなったという感じでしたよね。

私は子どものころずっと祖母の好みでおかっぱだったので周囲から「ちびまる子」と呼ばれていて、なんとなくさくらももこ氏を他人とは思えませんでした。それに、他の少女漫画とは違い、ずぼらでいい加減…親にもしょっちゅう怒鳴られるまるちゃんと自分を重ねて見ていました。

そんなダメ呼ばわりされていたまるちゃんが、大きくなってから漫画家になって面白いエッセイを書いて好きな仕事をしている…そんな彼女を目標にもしていました。今文章を書く仕事をしているのもさくら氏の影響が少なくありません。

今回はさくらももこ(まるちゃん)への感謝も込め、『ちびまる子ちゃん』の心に残ったエピソードやエッセイで気に入っている箇所などを挙げて改めてさくらももこの魅力をお伝えします!

目次

『ちびまる子ちゃん』は子どもであり、子どもではない。

ちびまる子ちゃんについては以前記事にしたこともありました。


ちびまる子ちゃんはご存じ小3ですが、彼女の浅はかな(子どもにありがちな)行動や変わったクラスメイト、たまちゃんとの友情やおじいちゃん、家族とのエピソードに共感したり、笑ったりしながら見ていましたよね。
ギャグをいっそう盛り上げるキートン山田の突っ込みは新鮮だったし、ほのぼのとした絵柄も印象的でした。

今では日本人なら知らない人はいないくらい国民的アニメになりました。

誰しもがどこか懐かしい印象を覚えるのは、どんな大人でもまるちゃんのような子ども時代に心当たりがあるからですよね。大人が忘れてしまうであろう子どもとして生きる一瞬一瞬のきらめきを丁寧にすくい取り、それを漫画にして落とし込んでいく仕事はさくらももこ以外ほかの誰にも真似できないことだったんだと思います。

『ちびまる子ちゃん』の中では気の強い子、変わった子、面白い子、色々います。大人のキャラクターも色々です。怒ったり優しかったり、ずぼらだったりと人間味のあるキャラクターが揃っています。
そういう大人たちに「アンタねぇ!」と負けじと口ごたえするまるちゃんは生意気で本当に可愛いですよね。

でも、そういう可愛さっていうのは大人になってから気づくものです。子どものころ見るとまるちゃんは「子どもなのにあんなに大人に口ごたえして…すごいなー」と思っていました。私もさくらももこ氏同様、どこか自分自身が子どもらしくない、無邪気にできないという「冷めている」という(子どもにとっては深刻な)悩みがあったんですがそのせいもあるかと思います。

つまり、ある意味まるちゃんは子どものようで子どもじゃないんです。「子どもらしい」ウソや行動はありますがそれは大人になってさくらももこ自身が「こうでありたかった」という後悔のようなものものもあったと思います。子どもはこうやって大きくなってほしいという願いもあったはずです。

それがおじいちゃんとの関係性にも表れていますよね。
現実世界ではいじわるで大嫌いだったおじいちゃんを漫画ではまる子に底抜けに優しいキャラクターにしています。

だからこそ、ギャグやちょっとしたブラックユーモアが生きるんですよね。

大人になってからもまるちゃんを面白く、楽しく見られるのもそのせいですね。

私の好きな話はどれも初期の作品が中心ですが、その中でも!というエピソードを紹介します。

【ちびまる子ちゃんお気に入り】4巻 まるちゃん、おばけ屋敷に行く

お父さんとのエピソードはほっこりする…

お父さんとデパートのおばけ屋敷に行くというエピソードです。

まるちゃんがお父さんに道中「お前本当に宿題いいのか」と言われて「人生なにが大切かって順番つけたら宿題よりおばけ屋敷だよ」というセリフには(まるちゃんの人生って一体…)というツッコミが入っています。笑

これは断言できますが、ちびまる子ちゃんの中でお父さんとのエピソードははずれがありません。

思春期になるとお父さんとどこかへ行ったり遊んだりするのはどこか照れるものです。まるちゃんを読むとわずかな間でもお父さんと楽しかった頃を思い起こさせますよね。

【ちびまる子ちゃんお気に入り】7巻 まる子まぼろしの洋館を見る

子どものころの忘れたくない思い出

まるちゃんが夏休みにたまちゃん、ブー太郎と廃墟の館に忍び込む話です。その後探してもどうしても見つからなかったその洋館。
そのエピソードはこんなセリフで締めくくられています。

「こんな不思議なことなのに、どうしてあのころもっとうたがって追求しなかったのか。わたしにはこのほかにも一度行ったのに二度と見つからなかったお花畑や田んぼがいくつもあります。
道をまちがえたとかかんちがいとか原因は色々考えられますが わたしは神様が子どもだけにあそばせてくれる場所があるのだと思えてなりません」

実は私も同じような経験があり、友だちとあちこち探検したことをこの話を読むたびに思い出します。

今はあのころのように子どもたちもあちこち行けませんよね。第一、GPSというものがあるし「あれどこに行ったんだっけ?」というのはマップを見ればなんとかわかるものです。子どもだけでそんなわけのわからないところへ行くなんて今なら子を持つ親としては心配ですが、子どもってこうやって大人の知らないところで経験したことで成長するものなんですよね。

【ちびまる子ちゃんお気に入り】5巻 家庭内クリスマスの巻

クリスマスを演出するまめなまるちゃん

タイトル通りなんだけど、この何気ない日常が好きですね。

まるちゃんちは貧乏という設定で(これは誇張している。当時のごく普通の家庭環境である)そのまるちゃんちのクリスマスのエピソードです。別になんてことない「ただ食べて飲むだけ」の家庭内パーティなんですが、まるちゃんが「みんなで歌でもうたおうよ~」とか言いだすのがいかにも子どもらしくてかわいいんですよ。

子どものまるちゃんにとっては、貴重なクリスマスイベントなので盛り上がりたいと必死になるところが可愛い。私も心当たりがあります。「ザッツ・クリスマス!」という飾りつけをしてみたりね…(案の定誰も参加してくれないんだけど)

『もものかんづめ』 メルヘン爺について

Twitterでもすでに出ていましたが、さくらももこの『もものかんづめ』に収録されている『メルヘン爺』は印象的でしたね。

氏のおじいさんは氏曰くボケたふりをして貯金箱からお金をくすねたり好物のおかずは二度食べたり、風呂を覗いたりしていたそうで…

私は、あれは絶対わざとボケたフリをしているんだと踏んでいた。老人問題の『ボケ』まで逆手にとって巧みに利用するとは、なんたる不良翁であろうか。【さくらももこ著『もものかんづめ』より】

と生前から嫌っていたようです。笑

亡くなった祖父が死後硬直で身体がくねり、開いた口をふさぐためにほっかむりをしたりして姉と爆笑したという実際に体験したエピソードなんですが、これが発表後「身内のことをこんな風に書くさくらももこってひどい」と批判の手紙も来たようです。同じ本に収録されている『その後の話』でそのことが書かれています。

うちの爺さんは私や私の姉や母に対して愛情がなかったのは事実である。だから、当然私たちも爺さんに対して何の思い入れもなかった。(中略)『身内だから』とか『血がつながっているから』ということだけで愛情まで自動的に成立するかというと、全くそんなことは無い。かえって血のつながりというものが、煩わしいことであるほうが多いとすら思う。
私は、血のつながりよりも、接することになったその人を、自分はどう感じるか、自分はその人を好きか嫌いか、と言う事から付き合いを始めている。

時折、「父のことが嫌いだ」とか「母のことが嫌いだ」という人がいるがそういうことも充分ありうると思う。その人の人生はその人にしかわからないし、個人個人の考えに他人が介入する余地はない。

【さくらももこ著『もものかんづめ』その後の話】より抜粋】

こういう彼女のスタンスに私は大いに救われました。
これを読んだのは14歳かそこらだったんですが、「ああ、それでいいんだ」と思えたわけです。以来、母のことや父のことを「親」としてではなく、好きか嫌いかで見られるようになった…というとそれはまだまだでしたが、絶縁したときに真っ先にこのさくらももこの『メルヘン爺』のことを思い出しました。

そして、同じような意味で彼女の妊娠・出産体験記『そういうふうにできている』というエッセイにも救われました。

『そういうふうにできている』に見る、子どもとの付き合い方

私も3年ほど前に息子を出産し色々と考えることも増えました。

こんな母親でごめんよ…とどことなく自信のなかった私ですが(今でも無いけど)子どもを持つということは、世間で言われている以上に自然なことだと思えるようになりました。同時に、母親・妻としての重圧も出てきたわけで、その点に関しては全国の毒母と言われる母親に少しは同情できるようになったんです。

どこをどう間違って親たちが『毒親』になっちゃったのかを考えると、まあ子ども対する期待値が大きかったというのが第一にあるんですよね。子どもが何かを自分にもたらしてくれることばかり考えちゃったというか…(逆も然り)

子どもは可愛い。子どもだって親に愛されて、可愛がられるのは嬉しい。でも、だからといって相手が相手を食い尽くそうとしてはいけないんですよ。それは『依存』と言うものです。

この「おっといけない!子どもに依存しちゃうとこだった!」というギリギリの線を親は生きなきゃいけないわけです。子どもを毒親育ちにしたくなかったらね。

毎日毎日24時間子どもと一緒に過ごし、日増しに愛情がどんどん膨れ上がっていった。子どもの寝顔を見れば『可愛いっ』という想いが溢れ体内を駆け巡り、奥歯をギュッと噛みしめるというような事が一日に何度も繰り返される。
だが、子どもは子どもでわたしではなく、別の個性と個体を持ち、違う人生を歩んでいくのだという距離は相変わらず気持ちの中にあるし、この気持ちは大切にしたいと思っている。

【さくらももこ著 『そういうふうにできている』出発より抜粋】

また、こうも書かれています。

(子どもは)『家族』という教室に、『お腹』という通学路を通って転入生が来たようなものだ。遠い町から転入してきた彼をクラスメイトの夫と私は歓迎し、今後仲良くしていこうと思う。彼が知らないことは教えてあげ、いろいろな体験を共にし楽しく過ごすであろう。お互いの絆は固く結ばれ、かけがえのないものになるとも思う。

だが、お互いに一個の個体なのだ。親とか子どもと言う呼び方は人間が便宜上関係を示すうえで作ったもので、個体にとっては無関係である。私は『親だから』という理由でこの小さな生命体に対して特権的な圧力をかけたり不用意な言葉で傷つけたりすようなことは決してしたくない。

【さくらももこ著『そういうふうにできている』マタニティブルーより抜粋】

私はこれを読む前(学生でしたが)「将来もし親になったら…」とか「親になるのが怖い」という想いがありましたが、読んでからは「ああ、普通に接していればいいのか。親だからって賢い親らしくなんてしなくていいし、そのぶん子どもにも愛されるべき子どもを目指すようになんて期待しなくていいのか。なんだぁ」と思えました。

だから今も、子どもに対して偉そうにしてなきゃナメられる!親としてのメンツが!なんて思わないし(時々3才の息子に名前で呼び捨てにされるくらいだし)息子にも親に借りがあるなんて思ってほしくないなーと思うわけです。

親子関係って距離感を誤るととんでもない結果を招くので、これは私もさくらももこ氏にならって心に刻み込んでいきたいスタンスですね。

【さくらももこさん追悼】稀有なセンスと自由な発想と

53歳。まだお若かったのに、本当に残念です。

『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』を読むと、その懐かしさと面白さはいつ読んでも新鮮です。才能に満ち溢れていた方だったんだと改めて思います。

また、私自身大いに影響を与えてくださいました。感謝してもしきれません。

本当に惜しい人を亡くしました…。本当に残念です。

しばらく『ちびまる子ちゃん』やエッセイを読んで思いにふけることが増えそうです。

哀悼の意と、心からのご冥福をお祈りします。

森雨


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