「子どものことが嫌いな親なんていない」と世間ではいい、親でさえも「我が子は可愛い」と唱えているのかもしれない。
でもはっきり言って両親は私のことが嫌いなんだと思う。
父親の口癖は「俺は実は賢いんだ。だから本来ならこんなところにいるべきではない」といつも言っていた。
でもどういうわけか田舎で貧乏している!といつもコンプレックスを抱えていた。
客が俺をバカにする。
俺はこんな人生を歩むはずじゃなかったのにお前のせいで!と酔って母をなじった。
母は母で「そんな父に追従するあたしってほんとに可哀想!」と不幸な自分を慰めていた。
仕事が終われば食べて寝ていた。仕事以外は本当に何もしていなかった。
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目次
両親にとって子どもは見返りそのものだった
そんな両親が特に気にしたのは子どもの成績と周りの評判だった。
とにかく勉強をさせること。とにかく優秀な子どもを持つことが不幸な自分に対する人生の見返りだと信じていた。
子どもの名誉は自分の名誉だと考えていた。
だから出来ない私を見ていて相当イライラしたと思う。
「お前はいいところが一つもないな!」と小学生のころから怒鳴られていた。
父は機嫌が悪い時にかぎって、算数の問題集を私に解かせた。
計算が間違っていると待ってましたといわんばかりに怒鳴り、殴った。
私はぶるぶる震えながら問題を解いた。
書く手が震えてうまく書けなかった。
問題ひとつ解くたびに親の顔をうかがった。
それを見て父はあざけり笑い、
「こいつ人の顔に答えがあると思ってやがる」と言ってわざと何かで顔を隠した。
母はそんな私を壁際で腕を組んで見つめていた。
何か汚いものでも眺めるようにそうしていた。
私は何度も母に助けを求めて視線を送ったが、一度もそれに応えてもらったことはなかった。
エスカレートすると、父は調理場から包丁を持ってきて
「次間違えたら指切り落とすからな」
と言って待ち構えていた。
「熱い鉄板の上に手を押し付けるからな」と脅されたこともあった。
父は私を可愛がり、母は私を必要だといった
今までの話と矛盾するが、それでも父は一番に私を可愛がった。
母は私を3番目の子を産んでよかった、と言った。
父は私を連れてよくドライブをした。
そのときは機嫌がよく、面白く、私は父が大好きだった。
母は私を連れていろいろなところに買い物に出かけた。
服を買ってもらうこともあった。
そして「三番目を無理してでも産んでよかった」と言った。
父は私が中学にあがるまで抱っこしたり、おんぶしたりしてスキンシップをとった。
私は両親が大好きだった
私は父と母に気に入られようと必死だった。
殴ったり怒鳴られたりするのは自分が悪いせいだと信じて疑わなかった。
周囲にも両親の自慢をしたり、仲の良さをアピールした。
優しい父と母は友達の間でも人気だった。
少しでも両親に好きになってもらうために、仕事や家事を手伝った。
食器洗いや風呂洗いなんかは私の仕事だった。
でも不思議なことに、全く手伝いをしない姉や兄のほうが気に入られていた。
私は大学進学のときも、私が田舎から都会に出たら両親が遊びに来れる。
進学したら親を喜ばせられる!という思いで受験勉強をした。
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でもやっぱり私のことを嫌う父と母。
「認めてほしい」という思いだけで頑張ってきた気がする。
しかし無駄だとわかったのは祖父が亡くなった時。
棺の周りの供花・・・私の名前だけ親族の名前から消されていた。
兄や姉が大げさな肩書と一緒に(両親が盛った)名前を掲げているのに対して、私の名前はなかった。
花束は親が勝手に用意したもので、姉兄にも知らされていなかった。
「どして私の名前だけないん?」
「あんたはいらん」
「どうして?私だって言ってくれてたらバイト代出してでも・・・」
「あんたは要らんの!しつこい!」
世の中そうしたもんよ、とため息交じりに父は言った。
「まさかあんた、ひがんでるんじゃないやろうね?」
私はそこで返す言葉がなくなった。
今両親はどうしているのだろう・・・
それから私は両親からの電話が取れなくなった。
すると両親は私が両親を無視する、ひどい親不孝な娘だと親族にふれてまわった。
私は両親の声を聞くとパニックになって言葉が出なくなり、しばらく寝込むようになった。
そして結婚式にも、子どもが生まれたときも両親は呼べなかった。怖かったからだ。
年に数回、孫の写真をメールで送る。
今はそれで精いっぱいだ。
両親は・・・私のことをどう思っているんだろう。
今はそのことばかり考える。
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