こんにちは、森雨です。
今回は歌川たいじさんエッセイ漫画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』を読んで感じたことを書いていきたいと思います。
歌川さんのこの漫画が最近映画化もされて話題になりました。
ご自身の幼少期からの生育歴、お母さんとの確執について描かれた今作は反響が大きかったようです。
読んだ人の中には「感動した」「考えさせられた」「自己肯定感って大事だと分かった」というものから、実際現在も親との確執がある人たちにとっては
「私には無理です」
「親子は仲良く、という文化を打開してほしかった」
「嫌な気分になった」
という意見もあったようです。
正直、私もこの本を読むのはちょっと勇気がいりました。
なぜなら、歌川さんは親と復縁しているから。
親と絶縁している私にとって、復縁するというのは想像以上に心の準備が必要なことなんですよね。
せっかく時間をかけて封印した罪悪感(罪悪缶?)の蓋を開けてしまうことにならないかとヒヤヒヤしたんです…。
でも、読後は暗くなるどころか、むしろ世界が明るくなった気がします。
『母さんがどんなに僕を嫌いでも』の重要なポイントは実は他にあったんですよ。
目次
人は人によって傷つき、人によって癒される
これは私自身もいつも感じることなんですが、やはり人は人によってしか癒されないんですよね。
私たちの生きる世界では毎日のように凶悪な事件が起こりますが、その問題を深堀していくと必ず行き当たるのが「孤独」です。
誰にも愛されない。
誰にも必要とされてない。
そんな状態がいつしか人を狂わせるんです。
この漫画の主人公たいじは学校でいじめられ、母親から虐待されましたが、実家の工場の人たちはめいっぱい可愛がってくれました。家庭と学校でつぶれそうな毎日の中にあっても、その避難場所があったからなんとか生き延びられたんです。
灯台のような、おばあちゃんの存在
特に工場にいた、おばあちゃん。
いつもたいじの「避難場所」となってくれたおばあちゃん。血のつながりはないけど、たいじさんの心の中には今でもおばあちゃんがいて、
「たいちゃんは何にもわるくないんだからね」
「たいちゃんの描く絵本大好きよ」
と支えてくれているのだと思います。
特に私が印象に残ったのは、そのおばあちゃんが亡くなるとき。
自己否定感でいっぱいのたいじさんが「俺ってブタだから…」と自虐ネタばかりを話しているときに最期におばあちゃんが言ったこの言葉。
「たいちゃんにお願いがあるの…僕はブタじゃないって言って」
「それは僕が気づいていなかった ずっと叫びたい言葉でした」
自己否定感を強めていた鎖が、おばあちゃんにはしっかり見えていたんでしょうね。
それからたいじさんは「変わりたい!」と一念発起して大学に進学、友達を作ろうと以前の自分との決別を図るんです。
自分のことを知っている人がいるという幸せ。
存在を否定せず、そのまんまを受け入れて「無償の愛」を与えてくれたおばあちゃんは、誰しもが心の中にいてほしいと願う存在です。
幸せに育った人にとってはそれは親、母のイメージそのものだろうと思います。
虐待といじめの中生き延びた人たちにもそんな「おばあちゃん」のような存在がいてくれれば…と願わずにはいられません。
人に癒されたから母を救えた
なぜ、たいじさんが虐待をされ、「いらない」と突き放されてもなおお母さんとの交流をやめなかったのか。
実は一旦たいじさんもお母さんとの交流を諦めているんですよ。
お母さんと関わるのはもうやめよう
いらないってはっきり言われたんだから。
あんな話をされちゃうくらい僕は嫌われているんだから。
「理解してやれ」と言われた気がして思わずカッとなりました。
どうして理解などしてあげなくてはならないのでしょう。母さんは僕の気持ちなんかちっとも理解しないのに。
親元を離れ、自活できるようになってからお母さんとの交流を一旦諦めているんです。
でも、「お母さんは自分自身でもある」ということに気づき、不幸の中で生きてきたお母さんに自分のありのままに生きる姿を見せることで幸せを感じてもらえるようになるんじゃないかと悟ったんですよね。
ありのままを受け入れてくれる友だちの存在があったから。
「自分が幸せになれたから、お母さんも幸せにできるはず……」
そんな風に信じられたのも、友だちの存在があったから。
「理解は気づいた方からすべし」
「親に変わってほしければ、まず自分が変われ。子どもが変われば、親も絶対変わる」
はっきり言って、これは毒親に悩む人にとってはかなり酷な言葉です。
もう親に合わせることにヘトヘトになった人にとっては倒れたところに思い切り蹴りいれるくらいにはダメージのある言葉です。
でも、たいじさんがこの言葉を素直に実行できたのはやはり友人の力。
お母さんにこてんぱんにされても、自分には帰れる場所があるという安心感のもとお母さんと対決できたんですね。
だからこの本を読んで「私もたいじさんみたいに親と向き合わなきゃ…」と思う必要はないんです。
たいじさんだって、それまで自分の問題と向き合って、友人と人生をやり直していってもう色々あってからの~お母さんとの対決ですから。
準備が出来てないならするべきですらないのです。
親との関係は人によって様々なのです
この『母さんがどんなに僕を嫌いでも』は重要なことを教えてくれています。
それは、親との絶縁は色んな形があるということ。
絶縁と一口に言ってしまうと、よく
「もう親とは二度と会わない」
「二度と話さない」
「連絡も一切断つ!」
なんてイメージしがちなんですが、私は絶縁の期間はどれだけでもいいと思っています。
自分が決めさえすれば、別に会っても電話してもいいと思っています。
重要なのは自分が決めるということです。
親に「来なさいよ!」「電話取りなさいよ!」「それくらいしなさいよ!」なんて言われる前に行動に移す…つまり自分のペースが保たれるような距離感でいさえすればいいんです。
たいじさんも、自分が「今ならお母さんを救えるかもしれない」という自信がついてからの絶縁解消でした。
母から逃げることはいつでもできるのだから 今は挑んでみよう
母と僕の間にあるものを変えるのだ
長い年月をかけて自分と向き合ってきたたいじさんだからこそこういう心境になれたんです。
人それぞれの、親との向き合い方があるということをこの漫画は教えてくれますね。
人と向き合うことを恐れてはいけない
どこかの有名な中学校の先生が「人という字は!支え合って成り立っている」と言っていましたよね。(世代だな~)
今これを読む毒親育ちの読者の方々は、どのくらい人と向き合えているでしょうか。
孤独と絶望の中大人になった人たちの不安定な心を支えられるのは、人に支えられて生きている人しかいないんです。
「(人に支えられている)幸せな人にしか、人を幸せにできない」
『母さんがどんなに僕を嫌いでも』のたいじさんはまさにそれを体現した方だと思います。
どうか恐れずに、勇気をもって人と向き合ってほしい。
そして、今幸せだと感じる人はどうか隣にいる人を支えられる人であってほしい。
そう願ってやみません。
森雨でした。
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