こんにちは、森雨です。
ナーバスな皆さんなら一度は感じたことあるこの気持ち…
「どうして自分ばっかりこんな目に…」というあの気持ち。
今朝私は夫と銀行に行こうとしてたんですが、たまたまマンションの駐輪場で夫が何故か突然「自転車ちゃんと止め直したら?」というのでちょっとズレてた自転車を止め直していたらとなりの自転車が倒れてきてそれも直してたら、足を強打し、負傷しました。
(説明長くてすみません…)
痛みに耐えながら「なんで自分がこんな目に遭わんとあかんのや」ということはたびたび起こるな…と改めて実感しました。
理不尽な目にも遭うし、どんなに気を付けていても交通事故に遭ったりもする。。
病気にもなるでしょう。
もしかしたら、死ぬ目にも遭うかも。。
きっと読者の皆様のほとんどが真面目に・誠実に・人に迷惑を特にかけることもなく生きているはずです。それなのに、偶然の悪い出来事は起こるのです。
ひどい世界…神も仏もないのかと思うのも当然かもしれません。
怒りを誰かにぶつけたり、思い切り泣き叫びたくもなるでしょう。
そこで今回は、
- なぜ自分にだけひどいことが起こるのか気になる人
- 偶然と必然は違うということ
- 自己憐憫思考回路から脱する方法
を考えたいと思います。
目次
【なぜ?】自分だけに不幸が舞い降りる理由
とても言いにくいんですがハッキリ申し上げますと、、これは思い込みです。
ツラいことばかり起こる…という方は実際いると思います。
しかし、ハッキリ申し上げますと、怪我や事故、理不尽な出来事、というのは実は誰にでも起こる可能性のあることであり、特別にあなただけが選ばれて遭遇したことではないのです。
少し理屈っぽくなるけど整理してみましょう。
例えば今朝の私にしてみれば、自転車を移動させたりする時点で「隣の自転車が倒れてきて怪我をする可能性」というのが私に発生しました。突然家にいるのに自転車が足に降ってきたわけではないわけです。自転車置き場に行く。自転車を触る、移動させようとする…この時点で危険が迫っていたわけです。
そして、可能性が可能性を呼びアクシデントは起こりました。
だから、「なぜ私がこんな目に?」という疑問に対しては「たまたま自転車を移動させて、それがたまたま足にそれが乗っかって怪我した」ということになります。
そうです、すべては偶然なのでした。
不幸を受け入れるには時間と周囲の優しさが必要
必然な事故ならまだしも、偶然起こったことをどう解釈するかは人の勝手ですよね。
「神の思し召し」
「ご先祖様からの警告」
「悪魔の仕業」
「運命」
「宿命」なんでもいいでしょう。
実際不幸が起こったときに「○○のせいだ」となるのは一時的には気が楽かもしれません。
それで癒されることもあるのは事実です。それはそれでかまいません。
でも、いずれはどんな不幸であっても受け入れなくては前に進めない瞬間が来ます。
誰かの死や過去…痛みと苦しみはどんな人であれ、どんな形であれ受け入れなければ前に進めないものなんです。
どんな辛い出来事であってもそれは同じです。
そして、その不幸を受け入れるには時間と人の優しさに触れることが必要です。
昔から「日にち薬」と言って、人は忘れたりすることで多くの悲しみを乗り越えてきました。
時には忘れられないトラウマなんてのもありますが、それでも徐々に時間としっかりとした治療を経てそれは軽減されます。
それに加えて、人の与えてくれる温かい気持ち。
「大丈夫?」
「つらかったね」
「痛かったよね」
「悔しかったね」
「もう大丈夫だよ」
「全部話していいからね」
と、誰かに自分自身の気持ちを受け入れてもらえることで人は不幸を乗り越えようという勇気をもらえます。
時間と、優しさ。
これは不幸を乗り越えるための最も重要なポイントなんです。
自己憐憫から脱出する方法を知っておこう
さて、ここから本題。
「何でこんな目に遭うのよ!」という怒りと悲しみの感情が起こったときは誰しも、「もういやだ」と投げ出したくなるものです。
その「もういやだ」という感情の中には、これまでの辛かった記憶や、昔起こった理不尽なこと、幼少期の親の言動、癒されていないいじめのことなんかも含まれていての「もういやだ」なんです。
「私ってどうしてこんなことばかり起こるの?自分が悪いの?どうして報われないの?」
こういう『自己憐憫(じこれんびん)』とは、簡単に言うと「自分かわいそう」という感情のこと。
誰にも癒されない感情が悲鳴を上げているんですよね。
これ自体は別に恥ずべきことではありません。どの人でも多かれ少なかれあるものです。
でも、あまりにその想いが強すぎて周囲の優しさや気遣いにも気づかなくなってしまう状態になってしまうのはあまりに損です。
だからこそ、ここで自己憐憫を感じたときに重要なこと4か条!
- 「あー!でもまあ、いっか!」と口に出すこと
- 一旦その場から離れて「なぜ起きたか」を考える
- 『調子悪い時のMY対処法』を実行する
- 自分の持つ「幸せ」に感謝する
「あー、でもまあ、いっか!」と口に出す
ショックで頭の中がぐらついているときは、自己憐憫どころか下手したら死を意識する人もいるでしょう。ああ、死にて―!って。
そういうときはあえて大きな声で「あー、やっちゃった!でもまあ、いっか!」と口に出してみてください。
ショックが和らいで、思ってなくても(まあ別に大丈夫か…)と思えることがすくなくありません。
呪文のように「まあいっか!」を使えると怖いものなしですよ。
一旦その場から離れて、なぜ起きたか分析してみる
それでもショックが大きい場合、一旦その場から離れるのも効果的。
事件がキッチンで起きたなら…例えば、一旦ベランダに出てみる。
そこで何が起きたかを冷静に考えてみる。
「それは本当に私のせい?…いいや、ただ砂糖と塩をうっかり間違えただけ」
みたいに、分析してみましょう。
偶然の出来事に、意味なんてないのです。
…いや、たとえ意味があったとしても、深く考えて落ち込むくらいなら考えなくてもいいのです。
『調子悪い時のMY対処法』を実行する
何かとすぐネガティブになってしまう人にぜひおすすめするのが、これ。
自分なりの『調子が悪い時の対処法』をあらかじめ決めておくということ。
例えば、読書をする、ヨガをする、お気に入りのお茶を淹れる、お風呂に入る、好きなアイスを食べる、ぐっすり眠る、など自分をリセットできるような好きなことを探しておくことです。
人がこの世を生き抜くうえで「これをすれば生きられる~!」というのがあるのと無いのとでは大きな違いです。
走るか自転車かくらい違います。
自分でメモをして貼っておいて「調子悪いな…あ、今夜は対処法をしておこう」という感じでマイルールにしておくと◎
自分の「幸せ」に感謝する
自分の対処法をして、リセット出来たら自然とできると思うんです。
今ある自分の幸せに感謝すること。
感謝するって、自己憐憫とは真逆の思考ですよね。
だからこそ、なかなか難しいと思う人もいるのかもしれません。
でも、きっと上記3か条をこなした人で「今日はこういうことが起こったけど、私は恵まれていることがたくさんあったわ」と気づけたならそれは幸せですよね。
私はつらいことや、やりきれないことがあると息子たちの寝顔を見て今目の前にある幸せにそっと感謝しています。
感謝することが出来ると、自然に他人の幸せを願うことが出来ます。
「家族みんなで健康に暮らせますように」と未来について考えられます。
そこまで来たらもう自己憐憫なんて戻ってきません。
お疲れ様でした!
自己憐憫に陥るのくらい辛いこともない
こんな風に、トレーニングしながら幸せの感度上げていきましょう。
自己憐憫自体は(繰り返すようですが)恥ずかしいことじゃないし、誰しも起こる感情です。
でも、あまりこういう感情に支配されてしまうと損することがどうしても多いです。
自分のためにならない。
まさに『可哀想な人』になってしまいます。
ぜひ今回は上記の脱出法を参考にして抜け出してくださいね。
森雨
読者コメント【まめに返信してます】