【終息宣言】絶縁していた毒親と8年ぶりに再会してきた話。

毒親 絶縁 解消 毒親について
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こんにちは、森雨です。

今回はタイトル通り…

絶縁した親と8年ぶりに再会してきたレポ です。

長くなりそうなので、前置きせずさっさと始めます。

この記事の内容

  • 絶縁中の親と会う時の心構え
  • 絶縁解消への覚悟っていうか想い
  • 絶縁解消を終えての感想
  • 今絶縁中(もしくはこれから絶縁予定の方)
  • これから絶縁解消予定の方


こんな内容で書いていきたいと思います。

こういう心当たりのある方はぜひ参考にしてください!

目次

絶縁解消のきっかけは親からのメッセージ

絶縁、と言ってますが、一応私は最近年に1回ほど親からの荷物を受け取っていました。
その中には賞味期限切れの食品(!)乾物、手作りのお菓子なんかがよく入ってました。

8年の絶縁の中で数える程度でしたが、そういう物が届いてたんです。

ある日、その中に一通の手紙というより、メッセージ。
いつもは荷物の内容を書いた内容のメモでしたが、そこに、

絶縁中の母
子ども部屋にあった荷物等を処分したいと思ってます。
ひとつずつズームで確認して処分させてください。

と、ありました。
「元気?」とか「会えなくて寂しい」なんていう言葉はなく、ただそれだけ。

8年会ってないし、電話もしてないのにいきなりリモートかよ…

いつもの親の『自分ペース』に呆れたんですが、同時に「まあ私の荷物捨てられなくて困るよな」という気持ちもあったのです。

再会しておこうと思ったわけ

以前から「そろそろ会っておかなければ」という気持ちがありました。
それは「会って絶縁関係を解消したい」「仲直りしたい」というものではなく、

突然の再会は嫌だ。

という想いからでした。

私には味方になってくれている父方の祖母が病気なのでその祖母が亡くなったらお葬式には出たいと思ってます。亡くなったら葬式には親族がみんな来ると思います。

そのときに突然の再会は祖母を悼むより親への緊張の方が強くなってしまうのは嫌だったんです。。

同時に、親への憎しみの気持ちが薄れてきていたというのもあります。
自分自身の今の生活が大切で、正直8年もたつと親への気持ちが結構抜けてきました。

会ってない親戚の人くらいの感覚になってました。
だから、「会うなら今だ!」と思って思い切って帰郷することにしました。

再会するにあたって、考えていたこと

毒親 再会 絶縁

会う日まで眠れない夜が続いた

さて、再会するとなるとやっぱり緊張します。

何を言われるのか。
どんな風に反応すればいいのか。

基本的には以前記事にしたようなことを気をつけたわけですが、

絶対に避けたかったのは争いでした。

以前の両親だったら、タッグを組んで感情を逆なでるようなことを言って「試す」ことが多かったのでそういう争いごとには発展させない、いざとなればすぐに実家から離れようと思っていました。

あと、子どもが2人いますが帰るなら絶対一人。というのも決めていました。

子どもや夫がいると、両親の何気ない言動が家族を深く傷つけることもあると思ったんです。
それに、こちらも守るものがあるとなおさら緊張しますしね。

とにかく、非暴力・非服従のスタンスで臨みました。

【ココどこ?】8年ぶりの実家、変わりすぎ。

今いる自宅から実家まではかなり距離があるのですが、日帰りというのを固く決めていたので朝に実家に到着するよう手筈を整えました。

早朝だったので駅までは母に迎えに来てもらいました。
8年ぶりの母は、思ったより老けてはおらず、まるで1年ぶりに会うかのような反応。

「雨ちゃん~久しぶり~元気にしてた~?」

みたいな。

それに対して私、

「あ、…はい」

どういう表情でいればいいのかわからず、目線が泳ぐ泳ぐ。笑
(いかんいかん、しっかりせねば!)と自分に言い聞かせました。

実家につくとまず驚いたのが、実家の間取りがリフォームですっかり変わっていたことです。
一階の店を取り壊し、すべて床暖房付きの広々としたリビングになっていました。

キッチンも新型。すべて母の好きな赤色一色!

「…あれ?人の家みたいな…」
「あれー、知らんかった?うちリフォームしたで」

いや、見ればわかる…という言葉を飲み込んで2階に上がる階段を探す私。
ようやく探して、上がってみていいかと許可を得る私…(実家だけど)

2階への階段を上がると、一気に空気があの嫌だった実家が一気に蘇りました。
テーブル、畳、窓、長い廊下。肌を刺すような冷たい空気。重苦しい。

親のためにと家をせっせと磨いていた小さかった私が確かに見えました。
風呂のカビが落ちずに小さな手でずっと磨いていたタイル敷きの風呂はもう使われていません。

(こんなに低かったのか、天井…)
(ここ、こんなにボロかったっけ?)

リフォーム後は一階だけで生活している両親。
私が子どもの頃「お金がほしい、新しい水回りにしたい」といつも言っていた母。

聞くと「もう2階と3階はほとんど使わない」そうです。

夢に何度も見た実家がそこに確かにありましたが、ひと気もなく、廃墟みたいになっていて何だかまだ夢の続きを見ているようでした。

8年ぶりの実家で食パン1枚食べる。

絶縁 再会 実家

8年ぶりの実家。期待してい訳ではないけど

朝食を食べてなかったので、両親と食べました。

私の妄想では、昔のように味噌汁とご飯が出ると思っていたんですが、食パンが1枚出ただけでした。

インスタントコーヒーを入れながら母が父に「朝ドラ始まるよ」と言ってました。
3人で朝ドラを観ながら黙って食パンを食べました。

本音いうと、

今自分ではよそ者気分なんだけど、実際お客さんではないし、こういう扱いでもしょうがないかとも思ったけど、あまりにも8年ぶりに帰省した娘に対して冷たくないかな…

という気持ちでした。

決して期待してはいけないし、期待しているわけでもないと思ったんですが、期待していたのかもしれません。ちなみに、昼ご飯は近所の食堂でラーメンを食べました。

実家の料理を長年妄想していた私にとっては、少し、、悲しかったです。

自分の荷物はすでに処分されていた。

さて、肝心の「私の荷物」はどこでしょう。

階段を上がって3階の自室に8年ぶりに入りました。
何もありませんでした。

母に聞くと「そこの本棚に入ってるやろ」とのこと。
見ると確かに私の物ですが、私の物はほとんどありませんでした。

私のものはすでに処分されていたのです。

母に聞くと「 わからんわ~」とだけ…。

別に処分でいいんですが、これだけならわざわざ来ることもなかったと思いました。

数年前に母から貯金箱(ブタのやつ)がそのまま段ボールに入れられて送られてきたのを思い出して(机の中の物とか、あの時に処分したんだな)と察しました。

黙って残っていたものを処分してその場を去りました。

【モラハラ逆転】父の病気と母の関係

父は私がちょうど絶縁に至った辺りから病気を患っています。
神経系の病気で、身体が不自由になるものです。

この病気は当初私のせいだと言われていました。
「あんたのせいでお父さんが病気になった!」と母から何度か電話で怒鳴られました。
病気になる前に父が私の置いていた原付に乗って電柱にぶつかり、事故を起こしていたからです。

2年前に医師である兄に思い切って電話して父の容態を聞くついでにその話をしてみました。

「え、そんなこと言われたの? 事故は全然関係ないよ。100%関係ない。病気が潜んでただけ」

兄は親の言動に笑いながら、きっぱり否定してくれました。

長年「父の病気は私のせいだ」と自分を責めていた部分があったので心からホッとしました。
同時にまた、母を恨みました。

母の明るさと父の病気

以前から記事にしていたように、父はモラハラ気質で、とにかく言葉のDVがすごかったです。
母に対しては「しね、ブス!」と罵ったり、昔から怒った時の父の剣幕はすさまじく、一緒に店をやっていた母はいつも父に対してビクビクしていました。

しかし、父が病気になって店を閉めてからは母の天下のようでした。

毒親 絶縁 再会

病気で立場が入れ替わった二人。

昔は何かにつけて父にお伺いをたて、気を遣っていたんですが、今は子どももおらず、仕事もない。
加えて、父が病気で体がいうことをきかず、母に頼りっきりになった今、母は好きなように出かけ、好きな時に好きなものを食べ、買い、大好きなお菓子作りに励んでいるようです。

父は牙を折られた獣のように、シュンとして近所の猫を撫でています。

母は祖父(母父)が亡くなったとき遺産を貰い受けたようで、そのお金でリフォーム・隣の土地を買い駐車場に。

とにかく以前より羽振りが良いようで、実家にはダイソン・ロボット掃除機数台・60インチのTVとスピーカー、最新家電がずらーり。

私は学用品ですらなかなか買ってもらえず「金食い虫」と罵倒され、「うちにはお金が無いんだから」が口癖だった親。
そのせいで今でもマネー・コンプレックスで苦しむ私っていったい…

【思っていた通り】私がいてもいなくても。

私がしぬ思いで絶縁した後、両親と姉や兄との付き合いは変わりませんでした。
実家には孫と写った家族団らんの写真や兄嫁から送られた写真がたくさん飾ってありました。

孫が増えるたびにみんなでお祝い。
毎年夏は県外に住む兄夫婦と近くの姉夫婦たち総出で夏祭りごっこ。バーベキューと花火。

悪気のない笑顔で繰り返される「雨も来ればいいのにね~」の言葉。

実親に頼れない子育てで疲弊しきっていた当時、私がこの言葉を聞かずに済んで本当に良かったと思います。

やっぱりというべきでしょうが、悲しいことに私がいてもいなくても家族は誰も何も変わらず、自分たちの生活を営んでいたんです。

姉の子どもが来て、子どもたちを膝に抱いて可愛がる父と母を見て気づきました。
これ以上、私がこの人たちの『子ども』である必要はないんだと。

もう、私の願う両親はいないんだと。
痛切に感じたんです。

それを証拠に、私に対する優しい言葉は何一つありませんでした。
「どうしていたの?」「もっと帰ってきてね」とか「今度は子どもを連れてきてね」なんてのも。

一切ありませんでした。

さようなら。いつまでもお幸せに。

夕方になり、母は私に承諾も得ず車で連れまわし、親戚や母方の祖母につき合わせて

「娘は改心して帰ってきましたよ」

と伝えて回りました。1時間ほど、私は黙って母の気に入る娘になりました。別に服従したわけではなく、ただ、今になって変わらない母を感じたかったためです。周囲を気にしていた母を哀れに思ったんです。

そして十分満足したところで、母は父と新幹線まで送ってくれました。
最後まで、母と父は過去のことを持ち出さないし、私も持ち出しません。

ただ、

私は別れるとき、ようやく

「お母さんもお父さんも幸せそうだね。よかった。ずっと幸せでいてね。さよなら」

この言葉を伝えられました。

もしもう二度と親に会わなくてももう満足なので、かなり心が軽くなりました。

ずっと毒親育ちで、肩書も『毒親育ち』『毒親持ち』でしたが、再会して自分の中で納得いく消化が出来たことで心底ホッとしました。

絶縁しても、会っておいてよかった。

両親に会ってから一か月以上経ちます。

会ってから周囲に「8年ぶりに実家に帰った」というと、ビックリされます。

事情を話すとたいてい、

「よく頑張った」
「あれから大丈夫?」
「大変だったね」

などの言葉をかけてくれます。

すごいなー、と思うのは、私が絶縁する前はまだまだ世間が
「親と絶縁なんてとんでもない」「親不孝者」
というレッテルが凄かったんですよ。ほんとに。

今みたいに『毒親』なんて言葉は広まっておらず、「親がいるだけで幸せ」という世間の価値観にずいぶん苦しんだものです。

でも、今は違う。

こうして、親に苦しんできた子どもたちが声を上げることが出来る。
親が重い、苦しいと正直に訴えることが出来るということが今、私には奇跡です。

今、もし絶縁した親と会うことを悩んでいる人がいるなら伝えたい。
親が生きている間に会っておいてよかったと私は思っています。
もし、会っていなければ未だに心のどこかで父と母を憎んでいたでしょう。

私は、自分の親に対する恐怖がもうないんだ、期待することは何もないんだと思えただけでも十分収穫でした。

これは生きている間にしかできないことですからね。

親と対峙した自分というものが胸にあることで、自信を持ってこれからも『自分のために』生きていけるような気がします。

森雨でした。

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