こんにちは、森雨です。
あなたは今年世間を震撼させた『座間殺人事件』について知っていますか?
SNSで『死にたい』と呟いていた人をターゲットにして9人の人間が殺されたあの事件。
先日NHKのハートネットTVの『座間事件とSNS』という企画で視聴者のコメントが多く寄せられているのを観ました。
(12/9放送 WEB連動企画『チエノバ』座間事件とSNS)
死にたい、という言葉自体をSNSで禁止するのは私個人はもうこれは馬鹿馬鹿しいことであるし、そうなってしまうとインターネットで唯一のメリット『自由』が無くなってしまってじゃあ何のためのSNS?という話にもなってくると思うので全く意味のない対策だとは思うんですが…
まあこの話は置いておいて、
そもそもどうして私も含め、多くの人たちが『死にたい』と言ってしまうのか?
『死にたい』と発信することで結局どうしてほしいのか?
実際に死ぬ方向に向かわせないためにはどうすればいいか?
【常に死にたいながらも育児する主婦】
の森雨がちょっと考えてみました。
目次
どうして私たちは『死にたい』と言ってしまうのか?
まず、そもそもなぜ『死にたい』と言っちゃうのか?
という問題なんですが、
私の場合、この「あー死にたい」というのは実際に死にたいと思っているわけでは微妙に違うんです。
「死にたいだって!? 大変だ!」
と、大騒ぎする必要はほとんどの場合無いと思います。
「死にたい」
という言葉を気持ちに忠実に言い換えると、
「今すぐこの世からきれいさっぱり消えて自分の存在を無くしたい」
というものなんです。
つまり、(少なくとも私の場合)の「死にたい」は「消えたい」という意味なんです。
「はあ?!人騒がせなんだよ!」とお怒りになる人もいるでしょう。
「そんなことで簡単に『死にたい』なんて言うなよ!」という人もいますよね。
それはごもっともです。
でも決して、決して『簡単に』死にたいと言っているわけではないんですよ…。
言うな!と言われて「ハイ、言いませんっ」となるような問題でもないんです。
(もしどうそうだったら問題はもっと『簡単』なんだろうけどね)
私がすぐ『死にたい』という理由
最近はまた飲み始めた薬のおかげで徐々に「死にたい」は無くなって
きていますが、まだ地底の奥底の地下水のように、冷たい「死にたい」「消えたい」がちゃぷちゃぷしております。
そもそも、この水がどうして溜まり始めたのかというと、
まあこのブログの読者様はよくご存じだと思いますが私が毒親育ちで
幼少期に人格否定をされながら育ったからなんですよね。
最近読んだコチラの本にまさに私の言いたいことが書かれておりましたので
抜粋させていただきます。
モラル・ハラスメントの攻撃を受けた子どもは自分を守るために意識を〈分裂〉させるしか方法がなく、その結果、心の中に〈死〉を抱えることになる。こうして、子どもの頃にあった出来事が消化されないと、それは大人になってからさまざまな形で再現されることになる。
つまり、常に「死にたい」という人の多くはモラル・ハラスメントの被害者なんです。
私のように毒親育ちでなくとも、例えばいじめや学校での教師からの執拗な叱責も同じくらい心に傷を残します。
その傷というのは「傷ついた」という自分を認めてもらえなかったというものです。
「死ぬほど辛かった」「泣きたかった」「悲しかった」
という自分の思いを誰にも受け止めてもらえなかったことが、長い間溜まりたまって、
(わたしの気持ちは誰にも理解してもらえない。
わたしは価値が無い人間だから。
私が死んだってだれも困らない。
誰も気にしない。
だったら、死にたい。
そんな気持ちを抱えて生きるくらいならいっそ死んで楽になりたい)
という発想にいたるわけです。
自分の気持ちを無視されながら生きる、というのは想像以上に過酷です。
そうでない人(親や周囲に愛され、ひどいいじめを受けることもなく育った人)にとっては想像を絶する世界だと思います。
自分の存在を無視されている状態は、徐々に自分の存在を無視する状態になります。
そうすると、当然生きている実感がわきません。
自分がやりたいこと・やりたくないことがわからない。
自分がやって気分がいいこととそうでないことすらわからない。
すべて「やれ」といわれるから何となくなやっているだけ。
誰の為に生きているのかわからないから「死にたい」
こんな感じです。
『死にたい』人が声をかけて欲しいわけ
例えば今回の事件のように、裏アカ(病みアカ?)を作ってまで
「死にたい」「もう消えたい」と言っている人は
少なくとも周囲の人には自分を理解されない、
受け止めてもらえないことを知っています。
友達や職場の人にバレたら、気持ち悪がられ、
せっかく築き上げた関係性はあっさりと崩れることが分かっています。
「死にたいなんて、簡単に言うなよ!」
「そんなこと言っちゃダメ!」
「メンヘラなの?笑」
と言われて終わりでしょう。
『死にたい』と言っている人は「そんなこと言っちゃダメ!」と言われるのが怖いんですよね。
精いっぱいの勇気を振り絞って出した『死にたい』という気持ちを否定されにいくようなもんですから。
だから、どこでもいいから「死にたい」と言いたい。
「死にたい」という自分を誰かに受け止めて貰いたい。
誰でもいいから、この気持ちを共感してほしい。
「私もだよ」って慰め合いたい。
そこには「生きてる」いう実感を得ようと足掻く人たちの姿が
あるわけです。
決して生半可な気持ちで「死」を持ち出したりしているわけでは
ないんですよ。
「死」なせないために
それでも、
「死にたい」と思っている人を止めるのは難しいです。
周囲の人がどれだけ心を砕こうがやはり自殺を止めるのは難しい。
私も精神科医でも心療内科医でもないので、「人による」としか言えません。
原因が分かっていても、医者にかかっていても死ぬときは一瞬です。
躊躇いながら首を吊って、次の瞬間には死んでいます。
しかし、
「死にたい」と言っている人と、実際に死を選ぶ人では大きな差があります。
この差を縮めないために必要な一番シンプルなことは、「死にたい」という人を否定しないことです。
「死にたい」と言える場があり、受け止めてくれる人がいると生きている実感がわきます。
「あなたが苦しんでいるの、わかるよ」
「あなたが苦しんでいるの、知っているよ」
と言ってくれるだけで、共感してくれるだけで『死にたい』は遠ざかります。
モラハラがある限り、毒親育ちがいる限り、いじめがある限り『死にたい』という人はいます。
残念ながら、ゼロにするのは無理でしょう。
しかし、被害に遭った人を救うことは出来るし、『死にたい』人を慰めることも出来ますよね。
難しい問題です。
私自身まだまだ克服できていませんし、もしかしたらこの気持ちは一生引きずるかもしれない。
同じ境界性パーソナリティー障害で苦しむ咲セリさんも、
『死にたいままで生きています』って言ってたし。
私の場合、「死にたいママでも生きています」って感じかな?
…すみません。苦笑
でも、もしこのブログで「共感しました!私も死にたいままで生きてます!」って人がいて、それで少しでも救われたらいいなと思います。
森雨でした。
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