こんにちは、森雨です。
今月、映画監督・脚本家の高畑勲さんが亡くなりショックを受けました。
実は3年くらい前にまだ息子が生後半年くらいのころ夫の仕事の関係で監督とその奥様と幸運にもお会いする機会がありまして、そのとき息子を抱っこしてもらったりお話したりと楽しい時間を過ごしたんです。
ご夫婦とも、ニコニコ笑ってらして終始穏やかな雰囲気で、あの『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』、『ホーホケキョとなりの山田くん』『かぐや姫の物語』などの名作を次々生み出されたというのも納得でした。
偶然にも亡くなる報道の前からずっと『火垂るの墓』について考えていました。
実は今の私の自宅は『火垂るの墓』の舞台となった阪神間のそのあたりなのでその近くを通るたびにも節子と清太のことを思い出したし、
ここ最近の日本の右傾化するころから何となくずっとしつこく考えていたんです。
目次
『火垂るの墓』と自己責任論
これまで一度は『火垂るの墓』を観たことがありますよね?
数年前まで夏の終戦記念日あたりには必ずテレビでも放送されていました。
私は今まで何度も観ましたがいつ見ても4歳の節子と14歳の清太の辛すぎる運命に涙して、戦争は絶対に理屈抜きに繰り返してはいけないと子どもの頃からそう思ってきました。
西宮のおばさんは節子たちにはお米を与えてくれないし、親を亡くした二人に対して冷たすぎるし、きつすぎるしで
(西宮のババアめ…)と憎んだ人も多いでしょう。
そんな人の元にはいられないとおばさんちを飛び出した清太でしたが、家もなく、身寄りもなく、食べ物も手に入らない状況(物資自体が不足していた)でみるみるうちに節子は衰弱して悲しい最期を遂げるのです…。
そんな悲しいお話ですが、ネット上では
「清太が悪い!ボンボンで世間知らずだから死んで当然!」
「清太が働いておばさんにたてつくようなことが無ければこんなことには」
「節子を殺したのは清太!」
と散々な書かれようでした。
私はこの書き込みを見たとき驚き、また『自己責任論』がここまで来たかと呆然としました。
どこからどう考えても悪いのは清太ではなく、戦争です。
まだ14歳の清太と4歳の節子から母親と父親を奪ったのは戦争です。
親を亡くして死にかけた子どもたちを平気で放置して見殺しにしたのも戦争(とその社会)です。
火垂るの墓。「こどもの頃観た時は意地悪だと思っていたおばさん。あの時代背景ではああなってしまうのも無理はない、大人が子どもを見捨てる世界は嫌だ」ではなく「意地悪だと思っていたおばさん、自分が大人になったら正しいと感じる。清太が悪い」となるの、やばくないっすか。
— ぬえ (@yosinotennin) 2018年4月14日
極端だと言われるかもしれませんが、『自己責任論』がここまで浸透した今の日本の社会で今戦争やまたひどい災害が起きるとこの『火垂るの墓』のような悲劇は繰り返されることは間違いないです。
火垂るの墓を見て「清太の自業自得」であると唱える一定の層。
いや、この層は思ったよりたぶん、厚い。
私はこの「厚顔無恥な」でも着実に広がりつつある層に危機感と恐怖を覚えます。
自己責任論と毒親育ち
去年の話になりますが、サッカー元日本代表の本田圭佑氏が自殺する若者に向けてTwitterで「人のせいにするな!」と書き込んで炎上しましたよね。
私は発達障害者であり、幼少期の経験から愛着障害となり、未だに色んなものを引きずっている立場(成功者からすれば「人のせいにしている敗者」)からすれば、
自分がいかに恵まれているかわからないがゆえの「自己責任論」だなという感じです。人の痛みが分からないという人としての欠点を露呈しているようなもので、正直、気の毒ですらあります。
いやでも、成功者は努力している、という当たり前の事実は事実としてあるんでしょう。
しかし、逆に言うと努力していない人間は成功者ではない。
例えば幼少期から周囲の大人たちにも友達にも恵まれ、愛され、自己肯定感をグングン伸ばしてこられた人と、
幼少期のころから機能不全家族に囲まれ、また虐待され、何をしても褒められるどころか頭ごなしに弱点を探して否定されるような環境で育った人とは決定的に生き方が変わってきます。
前者が【4】努力することで達成するようなことが
後者は【15】努力してでも子どもの頃から根付いた精神的なものが邪魔して達成出来ないかもしれない。
「自己責任」と笑い、罵る人は後者の気持ちがわからない。
その理由は「自分がいかに恵まれてきたか」ということすら気づかないから。
恵まれていたという感覚が無い人は誰かにそれを還元することすらできないんです。
あなたの「努力」で得られたものなんて何一つない
(これは環境問題を考えたときにも感じることなんですが…)
例えばあなたが休みの日に楽しくショッピングをして流行りの服を買うとする。
有名格安ブランドの洋服はみな大量生産・大量消費です。
東南アジアの人件費が安い国で、みな食べるのがやっとという中、空調の効いてない工場で女たちがミシンを1日中動かして汗まみれになりながらあなたの買った服を縫います。
男たちはその服を朝から晩までトラックで運び、飛行機で輸送します。有毒な染料は子どもの遊ぶ川に流れ、貧困は貧困を生みます。
安く買いたたかれた人件費と燃料費は多くの子どもたちの権利を奪うことになるかもしれない。
あなたが指定された金額を払うことで手にしたその服は、果たしてあなたの努力で得た「服」でしょうか。
買い物の合間にコーヒーを飲むかもしれません。
そのコーヒーには多くの人の手がかかっています。コーヒーを育て、摘んだ人の賃金はきっとあなたの得た賃金より安い。
それは積んだ人の努力不足でしょうか。
あなたはあなたの「努力」で果たしてその水準の生活が出来ているのでしょうか。
あなたを救う人がいる。あなたは誰かを救わなければいけない
自分の努力で成しえたものなど何もない。
私はブログをしていて、なんとかブロガーとしての収入を得ています。でもこれは読者の方がいるからであって、自分が努力したからではないんです。自分の環境に恵まれているからこうして書けるんです。
優しい夫や息子や周囲のたくさんの人が私を助けてくれるから生活できているわけです。
だからこそ、毒親育ちや同じ気持ちを抱いて苦しんでいる人たちに向けて少しでも手助けになればと思います。人にしてもらったぶん、誰かに還元することで社会は回ってるんだと思います。
「自己責任論」は誰にも還元できない人の身勝手な思考です。賢いあなたが決して振り回されないように願います。
最後に、オバマ元大統領のこんなスピーチを置いておきます。
(翻訳)私がいつも驚かされることがあります。(自分が成功したのは)単に自分がとても賢かったからに違いないと考える人々がいるということにいつも驚かされるのです。賢い人々はたくさんいます。そして彼らは自分たちがほかの人々より頑張ったから(成功したのだ)と考えているのです。一つ言わせていただきたい。あなたたち以外にもたくさんの働き者がいるんですよ。
もしあなたが成功者だとしたら、誰かがどこかのタイミングであなたのことを助けているはずです。そして、人生のどこかで、あなたは偉大な師と出会っているはずです。あなたが繁栄することを可能にしているこの素晴らしいアメリカのシステムですら、誰かの助けによって生み出されたものなのです。誰かが道路や橋に投資をしました。もしあなたが事業を起こしたとしても、それはあなた(だけ)が建てたものではないのです。ほかの誰かが、それが起こることを可能にしたのです。
(原文)I’m always struck by people who think, well, it must be because I was just so smart. There are a lot of smart people out there. It must be because I worked harder than everybody else. Let me tell you something — there are a whole bunch of hardworking people out there.
If you were successful, somebody along the line gave you some help. There was a great teacher somewhere in your life. Somebody helped to create this unbelievable American system that we have that allowed you to thrive. Somebody invested in roads and bridges. If you’ve got a business — you didn’t build that. Somebody else made that happen.引用元:You Didn’t Build That2012年オバマ大統領のスピーチ
森雨でした。
追記:子どもの権利
この記事は反響が大きくて、コメントを含め色んな鋭い意見をいただきました。そこで改めて私の考えを書いておきます。
まず、清太が海軍の偉い人のお坊ちゃんであることと清太たちの権利が迫害されることは関係がありません。いくら戦況が悪いからと言って子どもたちが餓死して死ぬようなことがあっていいわけがないんです。
戦争という特殊な状況である、ということを考慮したくなる気持ちはわかりますが、だからと言って大人が子どもから親や住居や食べ物を与えなくていいという理由にはなりません。
上の写真は写真家土門拳の写した戦後の浮浪者とその子の写真です。
戦後、守られるべきであった子どもたちが居場所も食べるものもなく浮浪児として街にあふれました。差別を受け、施設に入ったところで激しい虐待を受けて逃亡した子どもたちに誰が今「自己責任」と言えるでしょうか。
清太に自己責任だと言うということは、現在も深い心の傷を抱えて生きている多くの浮浪児たちに「戦争だったんだからもっと努力できたでしょ?」と言っているのと同じなんです。
戦争は多くの人の生きる権利を奪います。同時に、戦争は子どもの権利をいともあっさり奪うことになるんです。
コメントの中で子どもの家出問題についても言及されていた方がいました。
先日NHKスペシャル「#失踪 若者行方不明3万人」で知ったんですが、家出をする若者は一年間で3万人いるとのこと。
これは清太の件とは一見関りがないように見えますが、この子どもが家出をする件に関しても私は「子どもの権利が迫害されている」と感じます。
つまり、毒親の問題にも関わりがあるんです。
子どもの意志を無視すること。
まだ社会で生きる力を与えられていない未成年者に対し、「出て行け」などと暴言を吐いたり、居場所を奪うこと。
子どもに暴力を振るうこと。
子どもを放置して食事を与えないことや世話を怠ること。
清太と節子が受けたのは虐待とネグレクト以上のものです。保護を受けるべき子どもを放置したのは大人の責任です。
「自己責任」を子どもに振りかざすこと自体が間違いなんです。
そして『自己責任論』を振りかざす多くの社会の目に関してなんですが、これは確かに大変に憂鬱なことです。よくわかります。
『自己責任論』に妙な説得力を感じるものです。簡単でわかりやすい論理に人は魅力を感じます。
しかし、騙されないでください。正論というものは人によって違うものですし、答えはいつも一つではありません。
100人の(ごく無知な)成功者が自己責任だと訴えても、マイノリティを抱えるあなたは違うぞ!と異を唱えてください。
その小さな声は『自己責任論』に泣かされている多くの人を救い、また世界を一歩平和にします。(大げさでもないです)
哀しいかな、結局人は同じ立場にならないとわからないことは多いんです。
想像力を働かせて相手の立場にたち、思いやりを持てる自分であること。
素敵な人というのはこういう人のことを言うんじゃないでしょうか。
森雨
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